本居宣長記念館
魚町にあり、国の特別史跡に指定されている本居宣長旧宅跡は、中に入って見学することができます。
この家には宣長の子孫が明治時代まで居住していましたが、1909年(明治42年)鈴屋遺蹟保存会の手によって松坂城二の丸跡地に移築され、宣長当時の姿に復元されました。ここでは宣長が診療を行った「店の間」や講釈や歌会に使用した「奥の間」など一部が公開されています。また二階の書斎「鈴屋」は保存のため立ち入ることはできませんが、外の石垣の上から内部を見ることができます。 特に桜の季節に鈴屋をご覧になってください。
本居宣長旧宅の建物は、 元禄4年(1691年)に宣長の祖父が養母の隠居所として松阪の職人町に 建てたもので、 その後享保10年 (1726年)に現在の旧宅跡である魚町一丁目に移築されました 。宣長は父親が死去した翌年の寛保元年に家族と共にそこへ移り住み 、それから没するまでの60 年間を自宅として過ごしました。 明治42年に公開のため旧宅のみが松阪城跡へ移築され 、現存する場所となっています。
日野町交差点近くにあった旅籠「新上屋」で 、宝暦13年5月25日(西暦1763年7月5日)、 本居宣長(34歳)と賀茂真淵(67歳)が初めて対面しました。生涯たった一度の対面でしたが、 そこで真淵に古事記研究の志を告げました。真淵は宣長の『古事記』研究のためにはまず『万葉集』を学ぶことを勧め 、自分の生涯をかけた『万葉集』研究の成果一切を 宣長に伝えることを約束し、国学の歴史の新たな展開がここに始まりました 。この日のことを、 二人の対面を描いた佐佐木信綱の文章により「 松阪の一夜」と呼んでいます。
翌明和元年(1764)、宣長35歳のときに古事記の研究に着手し、35年の歳月をかけて、寛政10年(1798)69歳で全44巻の「古事記伝」を完成させています。古事記伝は古事記の精密な解釈の書で、古代史研究の大成として、かつてだれもなし得なかった独創的な研究といえます。本居宣長翁は、本当に日本らしい文化とは何かを考えていたようです。仏教や漢文学、蘭学などは、海外から来たもので日本古来からの伝統あるものを伝えるのは、「源氏物語」以前の書物であると確信していました。 古事記の研究を始めるにあたって、最初の文字「天地」をどのように発音していたかが非常に大切なことで、読み方によって意味が全然違うと考えました。この最初の文字の解釈だけで数年も費やしたということです。
そんな中宣長翁は、 昼間には店の間で診療を行い、 夜は奥座敷にて古典講釈を行っていました 。そして、天明2年(1782)53歳のときに2階の物置を改造し、四畳半の簡素な書斎をつくっています。この小さな書斎の床の間には36個の鈴が繋がれた柱掛鈴が掛けられており 、宣長は宣長は研究に疲れると36個の小鈴を連ねた柱掛鈴を振って、その鈴の音を息抜きに楽しんでいたといいます。 それよりこの書斎は「鈴屋」と名付けられ、 さらにはこの旧宅自体をも「鈴屋」と呼ぶようになりました
宣長さんは、自分で6個の小鈴を6ヶ所に赤い紐で結び、柱などに掛け、紐の端を振って鳴らす「三十六鈴の柱掛鈴」を作って鳴らしていたそうです。現在、本居宣長記念館に保存されている柱掛鈴は、長男春庭の作ったレプリカで、オリジナルは残念ながら現存していません。
宣長さんのシンボルは、なんといっても桜と鈴です。宣長さんは吉野水分神社の申し子として生まれ、山室にある奥墓の上には山桜が植えられています。鈴は書斎名「鈴屋」に象徴されるように学者としてのシンボルであったのです。