御城番屋敷の生活と行燈
全国的に現存例の少ない武士の組屋敷である松阪御城番の住まいは、小路を挟んで主家2棟からなる構成で残されているのは全国でもここだけです。主屋2棟・前庭・畑・南竜神社・土蔵よりなり、周囲に槇垣が巡らされて、江戸時代にタイムスリップします。
主屋2棟は国の重要文化財に指定され、土蔵は県指定文化財(建造物)です。
明治35年松阪工業高校創立時、主屋西棟の北端2戸が仮教室として使用されたため、1戸が切り詰められて現在は東棟10戸、西棟9戸で住むことができ、そのうちの1戸を松阪市が借り受けて公開しています。1戸あたり、正面5間、奥行5間、裏に幅1間の角屋が付く広さをもち、右手に通り土間、左手に田の字型に8畳2間、6畳2間を配し、式台を構える屋内です。
御城番の先祖は、徳川家康に仕えた横須賀党の勇猛な武士団でした。横須賀党は、家康の息子・徳川頼宣のお付きとなり、紀伊の国へ。しかし、和歌山城勤めではなく、南の田辺の勤務となりました。当時、田辺城主は安藤家が務めており、「田辺与力」の名前で安藤家で仕事をしていたそうです。現代社会でいう「出向」ですね。
安政2年(1855年)に、安藤家の家臣になるよう命令が下された田辺与力らは、徳川家直系でいたいと猛然と抗議しましたが、認められませんでした。そこで、藩士の身分を捨てて浪人になる道を選んだのです。 仕事を辞めた彼らは、6年にも及ぶ浪人生活という苦渋の間、藩復帰のために様々な活動を続けた後、紀州徳川家の菩提寺である長保寺の住職・海弁僧正の支援により、松阪城の御城番として藩に復帰することとなりました。こうして御城番屋敷が建設されたのです。
幕末の1863年、松坂城内三の丸に新築された屋敷に40石取り紀州藩士20人が松坂御城番職として、藩士および家族が住むことになりました。しかし、時代の激動にもまれ武士として復帰して間もなく明治維新となり、後に士族授産で得た資産を元手に住民士族が合資会社苗秀社を設立し、以来維持管理にあたってきました。
現在は、19戸中12戸が借家として貸し出され、一般の方も住んでいます。賃貸の張り紙のあるところもあリますので、興味のある方はご覧になってください。
また、お盆を迎え各地で盆踊りや灯籠流しなどの行事が行われていますが、松坂城下の御城番屋敷では小路に行燈が並べられ幻想的な雰囲気になっています。
江戸時代から残る小路は、石畳に整備され風情ある佇まいになっています。
人通りがほとんどなく、静かなお盆の夜となっています。