名刹探訪

常教寺


松阪市白粉町465番地にある「常教寺」は、浄土真宗高田派の寺院です。1671年に松阪市駅部田(まえのへた)町から移ってきたようです。


本堂の建立は1799年です。この本堂には、市指定の文化財「木造阿弥陀如来立像」が安置されています。
通肩で肉髻、地髪とも低く、螺髪はやや粗い。眉長く、わずかに開く玉眼の目尻は少し上がる。鼻はほそく、口は小さくまとまる。肩はなだらかで、胸が張り、腹の出は少ない。左肩から左腕や腹部、そして両脚間へ垂下する衣文には淀みがない。左肩前と右腹前に衣文のたたみがある。といった時代の好みを示しています。また、さし首で左手第三指先が欠けています。
もとは笹川町字只越の地蔵堂に安置されていましたが、明治末の廃寺の際個人蔵となり、常教寺に施入されました。

 

弥勒院 善福寺


松阪駅近くにある、真言宗高野山金剛峰寺派の弥勒院善福寺は、毎年2月3日の節分に「星まつり」が開催されます。
これは、一年間の安全祈願・祈祷・古い人形や御札の炊き上げ、豆まき、餅まき、火渡り等が行なわれるお祭りです。
寺伝によれば、もともとは隣接する八雲神社(牛頭天王社)の別当寺だったということです。


山伏姿の修行僧により、祈祷や護摩供養が行われます。
密教では、願いをかなえるために祈るとき、護摩を焚いて神仏に祈るのが一番良いとされています。  護摩とは、焚く、焼くを意味して、インド・サンスクリット語のホーマ(homa)を音訳したものです。護摩の炎に添えられる護摩木に書かれることは、願い事であるとともに、煩悩でもあるといわれますので、この煩悩を焼き尽くし清めて、願い事の速やかな成就を祈る儀式でもあるようです。
星まつりについて・・・私たちの運命に影響を与える二つの星があります。一つは生まれた日に由来する「本命星(ほんみょうじょう)」もう一つは北斗七星に関係して当年の運期である「当年属星(とうねんぞくしょう)」です。この二つの星により、良い年、悪い年が巡ってきて、運気の大小強弱や可能性があるということです。これを供養することによって、すべとの人の運気と運期を転換させ幸福を招くという祀りです。
火渡りをして厄除け無病息災を祈願しますが、燃える木の上を歩いた人は、ぜんぜん熱くないと言います。信心が深いと辛い修行にも耐えられる力がわいてくるのでしょう。
最後は、厄年の人が一人「鬼は外、福は内」と豆を投げて、それからは、8人ほどが豆とお餅それにお菓子をどんどんまいて歓声が上がりました。また、ひろった袋の中に紙が入っていると自転車や砂糖、洗剤などと引き換えられます。

清光寺


ベルタウンから職人通りに入り、本覚寺の前を通って少し進むと、浄土宗のお寺である三縁山信阿院清光寺があります。
松坂開府の時に松ヶ島から移転して、蒲生氏郷公の菩提所として厚遇されたようです。いつも掃除が行き届いていて清々しいですね。

本尊阿弥陀如来座像は国宝で、観音・勢至両菩薩像は市の文化財となっています。境内の如意輪観音様は、昔から厄除けの霊験が高いとされていて、そばには六軒駅の列車事故で亡くなった修学旅行生の慰霊塔が立っています。
線香立てが牛なのは松阪だからでしょうか?

清光寺とうなぎの大口屋の間に職人町の案内が建てられています。その横には、境界の標も。

正円寺

松阪市本町にある正円寺の前の通りは、矢下小路と呼ばれています。
嬉野町矢下(やおろし)の矢下谷にあった道場「矢下堂」が発祥とされる正円寺は、浄土真宗高田派のお寺ですが、蒲生氏郷公が、松ヶ島から城下を移した時に移転してきました。当時、矢下堂といわれいたので、前の道をこのように呼んだのでしょう。
蒲生氏郷公によって作られた町の一つで、戦国時代の名残を残す貴重な「隅違いの家並み」が見ることができます。敵と戦う時、隠れながら急襲できる戦法に使うのでしょうか。
本尊は阿弥陀如来立像で、昔嬉野町矢下の阿弥陀が淵より、檀家さんが拾い上げ、正円寺に安置したと言い伝えがあるようです。阿弥陀が淵は、堀坂山を源に中村川に流れ込んでいて、別名を雌淵ともいい、正円寺では、新しい住職が来た時や、得度を受けたときなど重要時には、霊験あらたかなこの淵へ参るしきたりがあります。
旧参宮街道から入る小道で、静かな佇まいの通りです。
松阪には400年も前に作られた古い街並みや道が今も残されています。
矢下小路の隣は、紺屋町という染物屋さんが立ち並んでいたところです。
石碑と新しい紺屋町の町名案内があります。この町も松阪城の移転とともに松ヶ島から移り住んだところです。

愛宕山 上福院、龍泉寺

国道42号線(旧熊野街道)がすぐ横を通る、愛宕山 上福院 龍泉寺では毎年1月24日、25日に「初愛宕大祭」と「愛宕市」が行われ、寒い季節にもかかわらず多くの人が訪れにぎやわいます。
ここは 全国でも珍しい火の神様を祭ったお寺です。明治政府によって廃止されたはずの神仏習合が残っているのでしょうか。何事にも例外はつきもので、江戸文化が今後も継承されていくことはいいことでしょう。
火から除災のための「朱札」や「お札」、「お守り」を新しいものに取り換えたり、農具販売の愛宕市をのぞいたりとされて、冬の縁日を楽しんでいかれるご年輩の方が多いようです。

初愛宕といわれるこの縁日は、火防せ(ひぶせ)の霊験あらたかな竜泉寺で江戸時代から続いているもので、このお札を火の気のあるところに貼っておくと火事や災難がまぬがれると信じられています。
本尊の愛宕大権現は空海(弘法大師)が鎮護国家・万民快楽のために自刻したと伝えられています。今も神仏習合時代の名残のある寺で、江戸時代の龍泉寺は愛宕神社の別当寺でしたが、明治政府による神仏分離の際神殿を仏殿本堂として本尊をお祀りしました。このように、愛宕権現をお祀りすり寺院は全国に数社しかないようです。愛宕山龍泉寺は高野山真言宗の古刹です。
開創は聖武天皇(在位724-49)が行基に勅し、一志郡中郷村滝野川に一宇を建てたのが始まりと伝えています。その後、七堂伽藍建立し滝野川寺と称したようです。
伊勢国司の北畠家の厚い信仰を受けていましたが、戦国時代になり、織田信長の侵攻により松ヶ島の平尾に移され、龍川寺とされました。しかしその後、蒲生氏郷の松坂城と町づくりのため、現在の地へ建立されました。そして、1581年に正親町天皇の御綸旨を下し勅願所となり、「愛宕山 上福院 龍泉寺」と称する事になりました。
大祭は、火防安住、勝運隆盛、良縁招福の大祈祷を行います。本殿にて法要、境内にて山伏(三重修験道会)による紫灯護摩供養が行われます。信徒の人たちは、火防の赤札を参拝の証として近隣縁者に配る慣わしがあるようです。
愛宕権現は、愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で、修験道の道場として信仰されていました。龍泉寺の本堂でも山伏姿の方が、朱札を授けてお唱えをしてくださいます。

夜になると、無病息災などを願い、火除けの護摩が焚かれた後、山伏姿の先達に続いて参詣者が火の上を歩く「火渡り」を行います。
今も神仏混淆時代の名残のある寺で、松阪霊地七福神の毘沙門天も祀られています。
ここの山門は、松阪で一番古い建物といわれていて、桃山時代の建造物かもしれません。お寺ですが、朱色の鳥居をくぐってお参りするのは、珍しいですね。
鳥居の横に山門がありますが、これは松阪の木造物で最古のものと言われています。  1588年の松坂城築城のため、不要となった松ヶ島城の裏門を蒲生氏郷が寄進したものと伝えられています。切妻造り、本瓦葺きの一間一戸の薬医門、剛壮で安土桃山時代の風格を残しています。県の重要文化財に指定されいます。
 

岡寺山継松寺


松阪市中町にある岡寺さんは、聖武天皇42歳の厄年の際にここのご本尊如意輪観世音菩薩を宮中にお奉りし祈願した後、再び当山に安置したことから厄除け観音としてこの地域の厄年の参拝者が多く訪れます。
伝説によると、洪水によりお堂は流失した時、ご本尊を拾い上げた二見の漁師が弁財天のお告げを聞いて出家し継松法師となりお寺を再建したことから継松寺と名付けられるようになったようです。

ご本尊「如意輪観音」は、厄除観音として親しまれている日本最古の厄除霊場です。
弘法大師空海が継松寺に逗留した折、本尊の両脇に不動尊と毘沙門天を造り安置したと伝えられています。
毎年3月の最初の午の日の本日とその前後の日で3日間は、松阪に春を呼ぶ「初午大祭(はつうまたいさい)」が行われます。県内で厄除けをする最大の寺院ですので、たくさん方がお参りに来ますが、特に19歳の女性の振袖姿での参拝が目を引きます。
いつから始まったのか厄を落とすということでハンカチなど身に着けているものを置いて、振り返らずに外に出ると厄が落ちるといわれています。このハンカチ落しについて、お寺さんはおすすめしていませんが、毎年ハンカチを入れるかごがあり、もう溢れそうになっています。これを整理するのが大変なんでしょうね。
百数十店の露店が出てとてもにぎやかです。

樹敬寺


松阪市新町にある樹敬寺(じゅきょうじ)は、京都知恩院の末寺にあたり1195年、俊乗坊重源上人によって開かれた浄土宗のお寺さんです。

重源上人は治承4年(1180)法然上人の推挙により、東大寺の大仏殿復興大勧進の職を拝命され、伊勢神宮の日輪御名号の縁にならい神宮に37日間祈願し、方寸の玉を授けられ大勧進巡錫をされて、大仏殿落慶供養された方です。重源上人は、この功徳をもって国中に七ヶ所の念仏同所を建立され樹敬寺はその中の一つです。
本堂は、明治35年に再建されたもので、2012年の春に修理されていた屋根瓦の葺き替えが今春に終わり、きれいな姿を見せています。
新町通りから門までの参道に石畳が敷かれていて清々しいです。
またここ樹敬寺は本居宣長家の菩提寺であり、祖先や子孫合わせて26基のお墓があります。
記録によると、本居宣長は仏教に対して批判的な説を唱えていましたが、その半面、自分の家の仏事は欠かすことなくお勤めされていたとのことです。
参考までに、本居宣長の父親は夢の中で仏に出合った喜びを絵に描かせており、母は善光寺で得度しております。また実の兄は東京、芝の増上寺真乗院主を勤めた高僧です。宣長翁自身も19歳のときに、この樹敬寺で五重相伝を受けています。五重相伝とは、浄土宗で、信仰の確定を証明し、正式に仏法を伝える儀式です。
ちなみに、私も10年前に受けて戒名をいただきました。「南無阿弥陀仏…」毎日、十遍のお念仏を御唱えします。



来迎寺

来迎寺は天台真盛宗に属し、永正年間の創建と伝え松ヶ島にありましたが、天正16年(1588)蒲生氏郷による松阪築城に伴い城下の白粉町に寺地を拝領して現在に至っています。
表門は、文政4年(1821)に竣工した一間鐘楼門で、大棟には瓦の鯱を挙がっており、一階が通路で、二階に掛かっている鐘は門より古く貞享元年の銘文があるものです。扉はケヤキの一枚板となっています。


本堂などは、享保元年(1716)の松坂大火で焼失しましたたが、程なく三井家などの尽力で再興されました。その費用は8700両にもなったといわれています。この再興された本堂は現在、国重要文化財に指定されており、境内には芭蕉の句碑もあります。
また、墓地には本居宣長次女・小津美濃夫婦や門人・小津信業夫婦の墓があり、近くには三井家の別荘「畑屋敷」もありました。檀家は三井家の他、安南貿易の角屋七郎兵衛一族や、豪商長井家であります。

本堂は、享保11年から再興にかかり同16年に完成した複合仏堂で、前後に並ぶ外陣(げじん)と内陣(ないじん)を合の間で繋いでいます。
前方の外陣は桁行(けたゆき)7間、梁間(はりま)4間、寄棟造、本瓦葺、前面に向拝(こうはい)3間をつけ、また後方の内陣は、身舎(もや)の周囲に裳層(もこし)を巡らした宝形造(ほうぎょうづくり)、本瓦葺の建物です。
身舎は方3間、阿弥陀、観音、勢至の三尊来迎像を配し、その背後の壁には二十五菩薩来迎図を描かれています。本堂は複雑な外観をもつとともに内部の空間構成は豪壮で意匠的にも優れており、江戸時代中期を代表する建造物です。

阿弥陀三尊の背後壁面に描かれた菩薩衆は、それぞれに楽器を奏でているお姿です。
とても躍動感にあふれている感じがしますね。

本堂には、昇竜の壁画が描かれていて、歴史と由緒を感じます。

春には境内の桜が満開を迎えます。