松浦武四郎記念館

松浦武四郎記念館


「松浦武四郎」翁は北海道の名付け親として最近、北海道各地で記念碑が建てられるようになってきました。人権・観察眼・健脚・地図作製能力・アイヌの風俗画などで素晴らしい能力を発揮した人物でありながら、教科書の片隅にも載っていないことが残念です。しかし北海道では小学校のとき必ず松浦武四郎翁を授業で習うので みんな知っているそうです。道内に武四郎翁の碑が大小54か所もあり 、江差には武四郎翁を祀る神社もあるようです。
江戸時代末期の北方探検家の松浦武四郎翁は、アイヌの人達と共に生活しながら探検を続けました。差別心を持たない人権感覚に優れた官僚として、北海道の地名の多くを考えアイヌ語に漢字を当てはめていった業績は今もなお生き続けています。


晩年は松前藩の圧力や政府のアイヌ融和政策に反発し、辞任してしまったため政府からはあまり良く見られなかったようですが、正義をつらぬいた姿は素晴らしいと思います。そして、余生は三重県と奈良県の県境にある「大台ケ原」の開拓をし、登山道をつけたり地図を完成させてりして貢献しました。地元では、大台ケ原に顕彰の登山をされています。

2月27日(日)は、1988年2月に亡くなった浦武四郎翁を偲ぶ「武四郎まつり」が松阪市の松浦武四郎記念館で行われます。当日は、北海道のアイヌの方たちも参加され伝統の民族舞踊を披露されます。ちなみに、江戸時代に粋と言われ江戸中で好まれていた松阪もめんが現在、アイヌ民族衣装に好まれよく使われるそうで、北海道から反物での注文がたくんあるようです。
松浦武四郎翁は旅に生きた人生を締めくくるかのように、東京・神田五軒町の住まいをついのすみ家として選び、その東側に8年の歳月をかけて書斎を設けました。一畳だけで完結した空間はかつてなく「自らの創作である」と自負していたそうです。 下の写真は、この「武四郎まつり」から公開されることになった書斎「一畳敷」の複製品が、松浦武四郎記念館内におかれたものです。全国巡回展として「松浦武四郎と一畳敷」展を開催していた住宅設備機器大手のINAXに山中光茂・松阪市長が譲渡を要請し移設が実現したようです。

松浦武四郎翁は知人に頼み、京都・渡月橋の橋げたや遷宮後の伊勢神宮用材など、有名な寺社仏閣などから91点の材料を集めて造ったといいます。屋根はススキぶきで、天井には龍の絵が描かれています。一畳の書斎を明治の評論家、内田魯庵は「好事の絶頂」と絶賛したそうです。武四郎翁はは著書「木片勧進」で「後世に残すためではなく、全国各地を歩き、さまざまな人々と交流した思い出のためで、自分が死んだら一畳敷の木材で死体を焼き、骨は大台ケ原に埋めてほしい」と記しています。しかし、松浦家は極めて珍しい書斎のため、遺志には従わずに書斎は残されました。現在は国際基督教大(東京都三鷹市)で国の登録有形文化財として大切に保存されています。
松尾芭蕉翁(伊賀市)、本居宣長翁(松阪市)とともに三重県が生んだ偉人のひとり松浦武四郎翁は、北海道の探検に始まり、全国各地をすみずみまで旅をした人物で、武四郎の歩いた道をつなげば、日本地図ができ上がるとまでいわれたほど、その調査は日本全国に及んでいます。 旧三雲町は、松浦家で代々大切に保存され、寄贈を受けた武四郎ゆかりの資料を展示する博物館として「松浦武四郎記念館」を平成6年(1994年)に開館させています。ぜひ、一度探検にお出かけください。

松浦武四郎


松浦武四郎翁は文化15年(1818年)2月6日、 松阪市小野江町に松浦家の四男として武四郎は生まれました。 父親は干支にちなみ「寅」と関わりの深い竹に、四男の「四」をつけ 「武四郎」と名づけたといわれています。


家の前には旧参宮街道が通っており、それは四日市の日永で東海道と分岐して伊勢神宮まで続く道で、 多くの旅人たちが行き交いました。 そして武四郎翁が、12歳の頃「文政のおかげ参り」というのが大流行します。 全国各地から伊勢神宮へお参りする人々が、 一年間に400~500万人もいたといわれていて、武四郎翁の家のあたりにも 宿屋さんがたくさんあり「名所図会」で読んだいろいろな土地からやってくる旅の人たちを見て、 武四郎は旅に出たいという気持ちを強めていきました。


武四郎翁は16歳で江戸へ初めて一人旅をします。 そしてここから日本全国を歩いて巡っていくのでした。好奇心旺盛でやると決めたらとことんやる性格のようで、 近畿~四国~九州~山陽、山陰~北陸~東北へと歩いていきましたが 、普通なら一日40キロがやっとといわれる当時の旅を、 小柄な体格にも関わらず60キロも歩いたといいます。 また全国各地をまわりながら、霊山と呼ばれ山々を登っています。 江戸では水野忠邦の屋敷で奉公したり、 長崎では髪の毛を剃ってお坊さんになり、名前も「文桂」と改めました 。

長崎にいたころ、 日本の北のあたりにロシアの船が接近しているという話を聞いたことが 武四郎翁の人生に大きな転換をもたらしました。 この頃、アジアにはアメリカやヨーロッパの国々が進出し、 植民地を拡大していました。このままでは日本もロシアに奪われてしまうという思い にかられた武四郎翁は、まだどんなところかよくわかっていなかった 蝦夷地(今の北海道)に行って、 自分の目で確かめようと一大決心を固めたのでした。 このとき弘化元年(1843年) 、26歳。しかしその決意が実を結んだのは2年後のことでした。

武四郎翁は、28歳で蝦夷に渡たり最初は商人たちの援助を受けましたが、後は自分で探索に道なき道をアイヌの人達に手伝ってもらいながら合計6回も行い、択捉島にも渡っています。そして見事に北海道の地図を書き上げています。

航空機や電車,自動車のない時代に、アイヌ民族の協力を得て歩いて調査をおこなった武四郎翁はその土地の様子をスケッチし、アイヌ語の地名・地形・動植物・アイヌ文化など見聞きしたことを事細かに記録しています。 一私人として誰から頼まれたわけでもなく、個人の意志で始めた調査でしたが、3回の調査を終え詳細な調査記録をまとめた武四郎のもとには、ロシアとの対外関係の中で蝦夷地に関心を持っていた各地の大名が使いを送りその記録を写しに来たといいます。松浦武四郎記念館の玄関の床に武四郎翁が作成した地図があります。

武四郎翁はアイヌ民族の若者が次々と漁場へと連れて行かれ、過酷な労働で倒れていく姿を目の当たりにし幕府に対し「明日の開発はもちろん大事であるがそれよりもまず今日のアイヌ民族の命と文化を救うべきである」という内容を調査報告書の随所で訴えています。そして民族と文化を守るためにはまず人びとにアイヌ文化を正しく理解してもらうことが必要であるとしアイヌ民族の紹介に努めました。しかし今から150年前の江戸時代,武士を頂点とする社会ではすべての人びとが平等ではなく、人権という考え方は多くの人びとの心の中には芽生えていませんでした。その中でアイヌ民族の人権を守るために力を尽くした武四郎翁でしたが、ともすれば閉鎖的で同調を強いる社会構造の中で彼はなぜアイヌ民族の文化を受け入れることができたのでしょうか。その答えは彼が蝦夷地へ渡るまでの間にあると思われます。伊勢参宮街道沿いの生家で小さい頃から多くの旅人を見てその姿に刺激を受けて育ち、若い頃から全国各地を歩き、各地の文化に触れ、学者に出会い、見聞を広めることでさまざまな考え方や価値観を受け入れることができる広い心をもつ人間へと成長していったのでしょう。
武四郎翁が目指していた北海道は、アイヌ民族が安心して暮らすことができる大地です。そのために江戸時代にアイヌ民族を苦しめていた「場所請負制度」の廃止と商人の排除などを強く訴えましたが、商人たちも自分たちの利益を守るために長官に賄賂を送るなどして抵抗した結果、武四郎翁は疎外され意見が聞き入れられることはありませんでした。そればかりか政府の開拓政策は先住民族であるアイヌの人びとが長く暮らしてきた土地や生活・文化を奪い民族としての尊厳を傷つけていくことにつながっていきました。

武四郎翁は,長年の功績が認められ国から従五位という位を贈られていましたが、開拓使を半年ほどで辞職するとともにこの従五位を国へと返上しています。そこには政府のアイヌ民族に対する政策への反発とともに、地位や名誉ではなくアイヌの人びとを守るために力を尽くしたが果たせなかった無念な気持ちでいっぱいだったことと思われます。
松浦武四郎記念館では蝦夷地であった江戸から明治のしらざる知識をたくさん学ぶことができます。