松阪城跡

松坂城跡 石垣

天正12年(1584年)、豊臣秀吉により松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が飯高郡矢川庄四五百森の丘陵に目をつけ、夜を日に継いで天正16年(1588年)に完成させた平山城が現在の松坂城跡です。

本丸や二の丸をはじめ主要な曲輪は、総石垣とし、特に需要地点には10mを超える高石垣が構えられました。
二の丸跡と上段、下段に分かれた本丸跡の高石垣は三重に重なり、要所に櫓を配し、複雑な桝形虎口を連続させ、折れを多用する等強固な防衛を誇っています。
本丸跡のほか城内にはいくつか井戸が掘られ貴重な水を得ていました。
本丸上段には三層の天守閣と敵見櫓、金の間櫓が築かれ、下段には月見櫓と太鼓櫓がそびえ立っていました。
石の階段の一つひとつが高くて歩きにくいまま保存されています。
天守は、付櫓さらに敵見櫓と接続し、多聞櫓で金の間櫓までが連続する構造であったが、正保元年(1644)頃の台風で天守閣は倒壊したと伝えられています。
安土城の築城に加わった蒲生氏郷ですが、松阪城にもこの時の石垣作りが取り入れられていて、石垣のつみ方は「野面積み」を主体に、隅の部分は「切り込みはぎ」「算木積み」という工法が使われ、安土城を上回る強固なもので美観という点でも優れているようです。蒲生氏郷の美意識の高さを感じられる近世の先駆けとなる名城としてあげられるという評価を得ています。
縄張り図によると、中心部に天守・御殿が位置する本丸上段を置き、東に本丸、二の丸を南東に、西に稀代丸、隠居丸を南に配し、周囲の平坦部に出丸・三の丸を配され、三の丸の外郭には深田堀・水堀をめぐらせていた松坂城跡。

松坂城跡


国の文化審議会は「松坂城跡」を史跡に指定することについて、文部科学大臣に答申を行い国に史跡になりました。

松坂城は、戦国武将の蒲生氏郷(1556~95)が1585(天正13)年に築城を始め1600年前後に完成したとされています。天守閣は江戸初期に倒壊、城郭や門などの建築物も明治初期までになくなってしまいましたが、城跡の中心部には自然石を使った貴重な「野面(のづら)積み」の石垣が残っていて2006年には日本城郭協会の「日本百名城」にも選ばれています。
指定対象になったのは標高35メートルほどの丘陵上にある本丸跡、二の丸跡、希代丸(きたいまる)跡、隠居丸跡など延べ約4万7000平方メートル。範囲内には国特別史跡の「本居宣長旧宅」も含まれています。ほぼ全域が「松阪公園」の敷地で、堀坂山や伊勢湾、市街地が見渡せる風光明媚でゆったりくつろげるパワースポットです。
城の南側には城の警護をまかされた紀州藩士とその家族が住んでいた武家屋敷です。そして、石畳を挟んだ両側に緑深い槇垣が連なる様子はしっとりした和の情緒を醸しだしています。文久3年(1863)に建てられたもので、現存するものでは最大級の規模です。 明治になり、武士階級が離散するなかにあって、合資会社苗秀社をつくり、ここに住んできた自分達の生活環境と気概を守り維持してきた人達が今も生活しています。


天守閣などがなくなった今でも手入れされているので、 素晴らしい石垣とともに桜や梅、藤そして銀杏などのたくさんの木々があって 静かなヒーリングスポットです。


本居宣長記念館のヤマザクラも春にはとてもきれいに咲いています。 いわゆる里桜(ソメイヨシノ、ヒガンザクラなど)は、 花が咲いた後から葉が出てきますが、 山桜(ヤマザクラ、エゾヤマザクラなど)は、 葉と花がほとんど同時に開きます。宣長翁は、 このヤマザクラに感動され愛でられたのしょう。

松阪薪能



今年で25回目を迎える「松阪薪能」が松坂城跡の野外ステージで厳かに開催
され、1000人近い人たちでにぎわいました。



午後6時からは、地元で能を愛好されている方が、
プロに劣らない素晴らしい演技を見せていただき、多くの観客が釘付けになっていました





午後7時に薪への火入れ式が行われ、松阪市の観光まちづくり交流部長
の松林さんがあいさつされました。



「能」をあらわす時にしばしば用いられる「幽玄」という言葉通り
夕暮れの空に半月が輝き城跡に薪が燃える独特の雰囲気に非日常を感じます。


「奥深くはかりしれない世界」という幽玄を少しは感じることができました。
 演目 狂言「因幡堂」  井上 靖浩/佐藤  融
能「枕慈童」(喜多)  長田  驍
 気持ち良い風が吹きわたり、じっくりと能舞台を堪能した人たちは
満足気に帰路につきました。
三重大学へ留学している欧米人15人程も招かれ圧倒された様子でした。